中世の時代に天台・真言宗から転派した寺院が多い中で、当初より浄土真宗のお寺として開基され、芸備地方において浄土真宗伝播の中心となったお寺である。

 石丸山高林坊は、明応5年(1496)福間浄誓(1473-1554)によって開基された。開祖浄誓は清和天皇より九代の後裔、新田大炊助義重七代の孫で、代々紀伊国福間の城主であったが、浄誓は戦国の世に無情を感じ武士を捨て出家し、本願寺8代蓮如上人の弟子となり、帰国後の明応5(1496)年に甲立の五龍城下(宍戸氏)に一宇を建立した。

 戦国時代・毛利元就(1497~1571)の勢力拡大と共に、真宗の教線も広がり吉田・郡山城でも法を説いたと伝えられている。元亀元年(1590)から天正8年(1580)10年間に亘った石山合戦では、毛利氏と共に織田信長と戦い、本願寺11代顕如上人から水晶の二連珠他法宝物を賜った。

 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの後、徳川家康により毛利氏は広島から山口・萩に移封された。高林坊4代西願の三男・空念は毛利氏と共に萩に行き、輝元から寺領を受け、一族と門徒の寺として萩に泉福寺を建立した。幕末に活躍する長州藩士・吉田松陰の先祖は安芸から萩に移住した、泉福寺門徒であったと伝えられている。

 毛利氏・宍戸氏が山口に移住後、慶長の後半、西願の代に現在の地(高田原)に移転した。

本堂他境内の諸堂建物は、現在、安芸高田市の重要文化財に指定されている。

◆高林坊の梵鐘は、明徳2(1391)年、豊後国朝見郷(別府市)吉祥寺の什物として鋳造されたものである。やがて廃寺になり、天正7(1579)年、芸州久波浜(大竹市)の栖雲院に移され、吉舎町の南天城主・和智誠春が毛利隆元を永禄5(1562)年に毒殺せしとの疑いで、毛利元就に永禄12(1569)年に厳島(宮島)で討たれた命日がこの鐘銘に記載されている。

 戦国時代には陣鐘として使用されていたようだが、天正17(1589)年、毛利輝元は広島城築城を始め、天正19(1591)年に毛利輝元が広島に移転する際に、宍戸氏より高林坊に寄進されたものである。現在は広島県の重要文化財(1953年)に指定されている。

 

◆作家・司馬遼太郎のライフワ-クとも言われている『街道をゆく』シリ-ズ21~「芸備の道(1979年)高林坊」で、司馬氏は取材に訪れている。興味のあるお方は「街道をゆく21~芸備の道」朝日新聞出版刊、並びに「司馬遼太郎と宗教」をご覧下さい。

高林坊の四季(上記)

春 慶長庭の約300年の枝下桜

夏 本堂前の400年の黒松・白蓮華

秋 親鸞聖人銅像前・紅葉・経蔵前の銀杏

冬 境内の雪景色

 

花咲けば命ひとつということを  あきら